映画公開の日(2006.5.20)に、たまたま小説を購入した。
「ダヴィンチ・コード」についてマスコミも、ネットも、
頻繁にとりあげていたから、おまけにダヴィンチも好きだし
イッチョ読んでみるかとの思いがあった。
ベストセラーになっている本は、最近碌なものがないから
敬遠していたのだ。
芥川賞・直木賞など、いまやレベルが落ちて
読むに耐えないものばかりだ。
そんな風潮の中で、「ダヴィンチ・コード」は
スリルに満ちていて、謎ときに、先に先に進みたく、
途中で止められなくなって
一気呵成に読んでしまう羽目になってしまった。
キリスト教に対して、殆ど無邪気な知識しかないから
唖然としつつも、聖なる書、つまり聖書なんてタイトル自体
いかがわしさに満ちているよなと納得しつつ読み進んだ。
今は昔。大学に通っていた、ガキの時代
ジイドの「狭き門」などを読んで、よく解らないと
4つ年上の同級生にぼやいていたら、
キリスト教が日本人には、
解らないから理解できないんだよ、と
言われたのを鮮明に記憶している。
そのことを憶いだしながら読んでいた。
もっともだと、妙に納得した覚えもある。
でも、今や、それほど左様な無邪気さは
持ち合わせていない。
私の時代の大学生は
ジイドどころか、ドフトエフスキー、トルストイ
ダンテなどの文豪の小説をものにしていた。
今時の大学生とは大違いだ。
今時の大学生の中には、日本語が理解できないのがいて
小説なんか読まないようだ。
それにしても、「ダヴインチ・コード」は
900万部売れたという。
ある程度の知識がないと、
この本は理解できない、というより面白くない筈だ。
マンガとケームだけの知識では、読めないだろう。
私の場合は、秘密結社といえば
フリーメイソンということは、識っていた。
フリーメイソンについては調べたりしたこともあった。
そういうことを識っているだけで、理解が違ってくる。
シオン修道会は識らなかったが、ジャン・コクトーが
総長だったなんて、驚愕してしまった。
小説だから、フィクションなのだが
識らない人間は、信じてしまいそうになるだろう。
「最後の晩餐」に描かれているヨハネが女性であると
明かされると、どうしても女性に見えてしまう。
そういう噂というか、説は、広く流布されていたのだろう。
参考文献は片っ端から読んでみたい誘惑にかられてしまう。
「ダヴィンチ・コード」を読んで、
映画を見たいとは全然思わなかった。
見る必要性すら感じなかった。
案の定、宣伝に釣られて、
見に行った人は全然解らなかったと言っているらしい。
若い人だ。知識がない人間に解る訳がない。
もっと言えば、教養のない人間には解らないと言ってもいい。
ならば、小説の方を読めとも言いにくい。
小説と映画とは別物としても、
「ダヴィンチ・コード」の謎ときの映像化は困難だろうと思う。
しかし、宗教建築物が数多く出てくるので、
その映像を見るだけでも、映画を楽しめるかも知れないとは思う。
これは、小説を読んで感じることではあるが。